板額姫慕情

作詩 藤沢一富 作曲 渡辺和男


唄 若尾 藍

1 鳥坂城の 桜散り
  鎌倉源氏の 攻め太鼓
  守る城氏は 越後の平家
  ああ 勇婦 板額姫よ 
  その弓張りよ  
  

2 与一の妻と 身を捧げ
  源平蛍は 浅利里
  愛と誠で 運命に耐えた
  ああ 勇婦 板額姫よ
  その凛々しさよ

  
3 秋風深き 帯石に
  心を寄せれば 裳すそ揺れ
  瀬立て不動に わが子を祈る
  ああ 勇婦 板額姫よ
  その 健気さよ 


4 武田の流れ 石橋の
  八郎屋形に 雪ぞ降る
  越後中条 夢また恋し
  ああ 勇婦 板額額姫よ  

  その面影よ

板額御前(はんがくごぜん、生没年不詳)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性武将。名は『吾妻鏡』(2003年時点で現存する、当該人物が登場するおそらく唯一の一次資料[1] )では「坂額」とされていたが、のちに古浄瑠璃などの文学作品で「板額」と表記され、現代では辞書も含めほぼすべてでこれに準じている。ほかに飯角とも。城資国の娘。兄弟に城資永、城長茂らがいる。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえはんがく)と知られてきた。 城氏は越後国の有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる。『吾妻鏡』の建仁元年(1201年)には、越後国において板額の甥に当たる城資盛(資永の子)の挙兵が見える(建仁の乱)。これは板額の兄の長茂(資茂とも)の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた。板額は、反乱軍の一方の将として奮戦した。『吾妻鏡』では「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し」と書かれている。しかし最終的には藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。板額は鎌倉に送られ、2代将軍・源頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の一族で山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾された。その後、一男一女をもうけたという。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚がある。容姿に関して『吾妻鏡』では「但し顔色に於いては、ほとほと陵園の妾[ 1]に配すべし(但於顏色殆可配陵薗妾)」「件の女の面貌宜しきに似たりと雖(いえど)も心の武(たけ)きを思えば」、すなわち美人の範疇に入ると表現されているが、『大日本史』など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。これは、美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されたためと解釈される。生誕地とされる熊野若宮神社(新潟県胎内市飯角)には、鳥坂城奮戦800年を記念した石碑が建てられている。